ここは異世界。
正確に言えば、元の世界によく似た別の世界。
普段なら鼻で笑うようなおとぎ話が、今現実に広がっている。
そもそもが現実から逃げて長らく生活をしていたからか、早く元の世界に戻りたいと言う感情も、単に戻らなくてはと言う義務感に押されているだけのようだ。
平井美月(ひらい みずき)……。
彼女の存在もまた、不可思議で仕方ない。
こちらの世界では、いつも何をしているのだろうか。
自分の意思とは無関係に行ったり来たりを繰り返しているのならば、こちらでも普通に生活をしているということだろうか。
「もしよかったら、さっき話に出てきた女性にも話を聞いてみたいんだけど」
彼女、いや名前を聞いたのだから平井さんということにしておこう。
平井さんが言うには、いつも通うコンビニからそう遠くない場所に住んでいるとのことだった。
変える方法が分からずにこの世界に住んでいると言うことは、平井さんが知らない情報も知っている可能性があるかもしれない。
「申し訳ないんだけど、もう少し付き合ってもらえないかな?」
「はい、わかりました……」
彼女も慣れない会話をしたせいで、疲労しているのだろう。
無理をさせてしまって申し訳ないが、知らない女性に会いに行くのに男ひとりでは警戒される可能性もある。
座っていたベンチを後にして、来た道を2人で歩き始める。
平井さんには、後ほど僕ができることを協力するとしよう、心の中で勝手に誓った。
それにしてもこうして誰かと肩を並べて歩くのも久しぶりだ。
こちらの世界に来てから自分らしくないことばかりしているような気がする。
思ってもない事態に巻き込まれた今の方が、それらしいことをしていると言うのも皮肉なものだ。
歩き出してから、平井さんが話をする様子はない。
無言で並んで歩くと言うのもなんだが居心地が悪いので、簡単な質問をしてみることにした。
「そういえばコンビニで毎朝見かけていたけど、いつから働いているの?」
「あの、えっと、2年くらい前です」
自分から話しかけておいて、次の話題が浮かばない。
ずっとひとりで過ごしていた弊害はコミュニケーション能力にも影響するようだ。
「……」
また沈黙が訪れる。
コンビニで見かけた時はロボットのようにマニュアルに縛られていて、人間味を感じなかった。
しかし、こうして他愛のない会話をしながら歩いていると、案外普通の女の子なのだと実感する。
「こっちの世界と行ったり来たりしてしまうのは大変じゃない?」
平井さんは少し目線を左上にあげて、考え込む様子でこう答えた。
「起きると、その、変わらないんです」
変わらないとはどう言う意味だろう。
「あの、時間が過ぎてないんです」
つまり彼女が元の世界へと戻る時は、こちらで過ごした時間がなかったかのように時間が元に戻るのだと言う。
そのため、元の世界での生活はそれまで通りに続けられ、こちらにきた時には夢の中のような感覚で過ごしているらしい。
「もともと知り合いもいないので、支障ないんです……」
自分と同じように、元の世界で人間関係を築いている訳でもないので、こちらに来ても同じように過ごすだけ。
同じ境遇の人間を彼女しか知らないので、コミュ障のぼっちだけがこちらに飛ばされているのではないかと疑いたくなる。
「もしかして、会いに行く女性も静かな感じ?」
まさか、暗い印象とは言えないのでオブラートに包みながら質問をした。
「いえ、とっても明るい方でしたよ」
期待していたのとは違う答えだったのは仕方ないが、とっても明るいと聞くと話すのが億劫になる。
平井さんと話すのさえこんな様子だと言うのに、明るい女性と会話をするなんてちょっとばかり荷が重い。
プレッシャーに感じるくらいなら、余計なことを聞かなければよかったと後悔してももう遅かった。
「あ、このアパートだったと思います」
そう言って彼女が指さした先は、僕が住んでいるアパートだった。
こんな偶然……と思ったが、ここまでくるとそもそも偶然なんてないようにも感じる。
「部屋番号はわかる?」
「いえ……」
流石に部屋をノックして回る訳にもいかない。
「実は僕もここに住んでいるんだ」
「部屋の中からその女性が出てくるのを見張っているのはどうかな?」
「……」
今日まともに話たばかりの男の家に上がるなんて、断られても仕方ないか。
「ごめん、やっぱり嫌だよね」
「あ、ごめんなさい考え事してて」
平井さんは天然なのかもしれない。
「わかりました、そうしましょう」
意外にもあっさりと快諾され、こちらの方が少しドギマギしてしまう。
「さっき考えてたことなんですけど……」
平井さんとその女性がアパート前で待ち合わせした時に、扉が開く音が上の方から聞こえてから女性が出てきたらしい。
このアパートが3階建てだから、僕と同じ2階なのかその一つ上の階と言うことになる。
「それなら音で扉が空いたのが分かりそうだね」
格安アパートで音が響きやすい点を初めて便利だと感じた。
2階へ上がり、家の扉を開けると消し忘れていたクーラーの涼しい風が通り抜ける。
女性が家に上がると言うだけで、こんなに緊張する感覚は学生の頃以来だろうか。
来客を考えて住んでいなかったので、ちょうど良いクッションすらない。
小さな机の前で向かい合わせに座り、また沈黙が訪れる。
しばらく、そのまま色々と思考を巡らせていたが、この暑い日に飲み物一つ出していないことに気が付いて、冷蔵庫からいつものお茶を取り出して平井さんに差し出した。
「ごめん、これしかないけど」
「あ、ありがとうございます」
外からは、夏らしい蝉の声と時折、誰かが道を抜けていく話し声のような音が聞こえる。