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沖野曜一朗の「生前」における『存在価値』とは一体なんなのか。

沖野曜一朗の「生前」における『存在価値』とは一体なんなのか。

最近は絶望がないことに絶望している。
友人もいない、金もない、将来も見えない、金もない。絶望していてもおかしくない状況なのに全く絶望することができない。
何年か前までは週1で絶望していた気がするのだけどすっかりその気がなくなってしまった。
ストレスがストレスとして溜まってしまっているのだからだと自己分析をしている。
ちょっとしたストレスで、ああもう人生どうでもいいわって絶望に変換できるのはものすごい強みだったのだと今は思う。
今はただストレスがただストレスとして蓄積されて、体調が悪くなって、でもメンタルは通常運転。ストレスが精神的に流れるのではなく肉体的に流れるようになってしまった。
わからない。もしかしたらとっくに本当の絶望を手に入れてしまったのかもしれない。かすかな希望すら無いからだから絶望さえ生まれない。超フラット。メンタルがフラット過ぎる。
というわけで今は絶望を求めている。あまりにも日常に抑揚がなさすぎて、もう『無』としか言いようがない。だから刺激を求めている。
プラスな出来事というのは周りから取り入れなければいけないけれど、マイナスな出来事というのは自分の中から簡単に生み出せるはず。だから絶望を求めている。
お金も時間も体力も削らずに手に入れることができ、日常を刺激的にしてくれる。だから絶望を求めている。
そしてなによりも思考を巡らせるためにも絶望を求めている。
あるあるじゃないですか。
順調な日々を送っているときって、なにか物事を考えることってあまりないんですよ。言葉が生まれてこないんです。
でもドン苦しいときって、頭ばっかり周るんですよね。だからいろんな言葉が頭の中に浮かんで来る。恨み、悲しみ、憎しみ、怒りとかの強い感情は思考能力を向上させる気がするのです。
そういうのを求めている。
深い絶望に陥って、強いマイナス感情を自分の中で作り出して。あらゆるものを作り出す。苦しいけど、最悪な気分だけど、ふとした瞬間に超最高なときがあるんですよね。それをもう一度味わいたい。
今はただのストレス、イライラだけでそれ以上なにも怒らない。家に1人でいてもただぼーっと過ごすか、寝ているだけ。平和っちゃ平和なのかもしれないけれど、ただの空気なんですよね。
以上クソコラムでした。

ライターはこの人

熊谷
『個性派ライター』のクマガヤ
1人で群馬から東京まで歩いたらどうなるんだろうと思い付き、実行する強い好奇心も持ち合わせている。

「もう書きたくない」がお決まりの言葉。
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