日本を取り巻く問題の一つ、北方領土問題。
今回はそれについてわかりやすく書こうと思いましたが、無理でした。なるべくまとめて書きました。
お付き合いくださいませ。
目次
北方領土を知る
まず北方領土とは択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)の四島のことを指します。日本の最北東位置する択捉島、そのすぐ南にある国後島、国後島と並ぶように色丹島と歯舞群島が南北に並びます。
この四島のすぐ南西には北海道が、そして択捉島より北東側には18の島が並ぶ北千島があります。
早速本題へと入っていきますがこの四島はいつから北方領土と呼ばれ、いつからその所在について話し合われてきたのでしょうか。
まずは具体的に話が上がった1951年のサンフランシスコ平和条約まで遡ります。
サンフランシスコ平和条約における北方領土の在り方
まずサンフランシスコ条約とは日本と連合国各国との平和条約のことを指します。日本は49カ国との連合国と平和条約を結ぶことで連合国の占領下を脱し第二次世界大戦の終戦を迎えます。
さてこのサンフランシスコ条約の中に日本の北方領土に関する一文があります。
「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」(第二条(c)項)
これには当時日本の領地であった千島列島及び南樺太に対する全ての権利、権原、請求権を放棄すると記載されております。
尚、当時の日本の説明によると千島列島には択捉島、国後島も千島列島に含むとされています。(南千島)
ということは色丹島、歯舞群島は日本の領地となりますが択捉島、国後島に関してはソ連の領地になるということなのか。
この段階ではソ連の領地にはなりません。なぜなら、ソ連は同条約に調印していない為です。理由としてはアメリカが日本に駐留する内容であったことと、中国の代表を招待していなかったこと。ただ、調印していないということは同条約の権利は発生しないというのが日本の見解です。
問題の中心となる千島列について
第二次世界大戦前日本とソ連は両国の国境を1855年に日魯通好条約にて日本は択捉島まで、ソ連はウルップ島までと定めております。
1875年樺太千島交換条約においても日本は樺太全島を受け渡す代わりにソ連から千島列島(シュムシュ島からウルップ島までの18島)を受け取っています。
1905年のポーツマス条約ではソ連より日本は南樺太を譲り受けております。
ややこしくなりましたが、簡単にまとめると
・日魯通好条約で日本は樺太及び四島まで、ソ連は千島列島ウルップ島までとの国境を定めている。
・その後、樺太千島交換条約、ポーツマス条約を結んだことにより南樺太及び千島列島においても日本の領土となった。
話を戻しますがそもそも日本の四島を譲れない理由とは。
日本は第二次世界大戦時に四島をソ連より占領されております。
有事の際でも中立な立場でいるという条約(日ソ中立条約)を結んでいたにも関わらず侵攻してきました。その為、日本は強引に奪われたという印象が強いのです。
(ソ連側からは日本から先に条約を破ってきたという主張があります。当時日本は演習という名目で満州へと軍事行動を行いました。結果、ドイツと揉めていたソ連軍は満州側へと兵を割く結果となり、日本軍は実質ドイツ軍の援護をしたことと変わらない。)
及び四島に関しては過去の歴史において日本以外の国の領土になったことがなく、日本の固有の土地である為です。
樺太、北千島に関しては日本、ソ連間を行き来していましたが四島はそれがありません。
ただ何故サンフランシスコ平和条約で択捉島、国後島を含めてしまったのか・・矛盾していますね。
アメリカからの四島返還しなければ沖縄返還しないなどの要求などにより含んだり含まなかったり意見が転々とするわけですが。
サンフランシスコ平和条約を調印しなかったソ連とは後に1956年に日ソ共同宣言という条約を結び、色丹島及び歯舞群島の返還を平和条約締結後に行うとの取り決めがなされました。つまり外交関係を回復して今後話し合っていきましょうということです。
それから約70年結局、現在もロシアとは未だ平和条約を結べておらず2島返還すら行われておりません。
平和条約を結び、2島返還、はい終わり、ということにも日本もなれないわけですが。
少し長々と書いてしまいましたので今回は1の部分というところで一旦お終いにさせていただきます。
2があれば続く・・・
photo by Pixabay
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