
疲れが溜まっていたのだろうか。
気がつくとベットの上で眠ってしまったようだ。
「そうだ、昨日のテレビ番組……」
上半身を起こして、枕元に投げ捨てられていたリモコンに手を伸ばす。
視線の隅ではデジタル時計が08:12を告げていた。
普段なら、世の中に散らばった特に興味も湧かないニュースが淡々と読み上げられる時間。
昨日はおかしな場所で失神してしまったせいで、言葉が聞き取れなかっただけかもしれない。
そう思ってテレビの電源を入れると画面が数秒の沈黙から明るくなったと同時に、テレビの中から昨日と変わらない意味不明な言葉が溢れ出す。
「やっぱりおかしい」
そう呟いたと同時に、来客を知らせる聞き慣れたベル音が部屋の壁を反響しながら耳元へと辿りついた。
誰かが家を訪ねて来たようだ。
仕事を辞める以前から友人を家に招いたこともないし、そもそも住所を知っている人すら限られている。
寂しいと思ったこともないわけではないが、無気力な性格なだけに鬱陶しいという考えの方が先立ってしまう。
だから家のチャイムが鳴るときは決まってコバエのように厄介な勧誘か、もしくは配達業者がドアの前に立っているかのどちらかだ。
「はい」
いつものように覇気のない返事をしながら、ドアを開ける。
「オトモリサないに」
目の前に立っているのは、生きている中で何度となく目にした人間(日本人)であることは間違いない。
まるで外国人と話しているかのように、日本人らしき人の口から発せられる言語は自分の左脳に届いていても処理ができずに疑問だけ残して消えていく。
わからない言葉を投げてきた目の前の女性はニコニコと笑顔を顔に張り付かせながら、1枚のチラシを僕に手渡してきた。
チラシに視線を落としてみる。
「コウモリのいかガイにしぬ」
もう頭が狂いそうだ。
本当にここは日本なのだろうか。
倒れた後の帰り道も、見慣れた味気ない我が家も何も変わらないというのに、僕はどうかしてしまったのだろうか。
「すみません、帰ってください」
そう言いながらドアを閉めたときに相手が浮かべた表情は、僕がさっき浮かべた表情と全く同じ顔をしていた。
大きなため息をついて、小さな部屋に見合うサイズの冷蔵庫から買い置きのお茶を取り出す。
いつもならパッケージに「爽健美茶」と書かれているはずなのに、やはり読み取れない文字が記載されている。
毎日飲んでいるから一口ではっきりと同じ味だということも認識できるのに、文字が違うだけで並べて置いた時計の秒針が数秒違うまま進むような、ムズ痒い苛立ちが胸をかすめる。
落ち着いて冷静に考えてみれば、言葉や文字が理解できなくなったのはコンビニ帰りのコインランドリーで倒れた後からだった。
脳に何かしらの障害を抱えていて、このような現象が起きているとしか考えようがない。
記憶が確かならば、仕事で通勤していた頃に通った駅からの帰り道で脳神経外科と書かれた病院を見かけたはずだ。
狭い世界に閉じこもっていた時間が長かったせいで、それよりも前の記憶ほとんどが薄い雲のように曖昧なってきている。
だけど悲しいことに目を瞑っていても歩けるほどに繰り返した、仕事終わりの憂鬱な道であれば今となっても思い出せる自信が湧いてしまう。
本来であればスマホを開いて検索すれば良いだけの簡単な話だが、今現在では文字すらも理解できないので、当たり前にこなしていたことさえできない。
混乱を早く解消してしまいたいという気持ちを抑えながら、簡単に身支度を済ませて、うる覚えの病院を目指して家のドアを開ける。
とりあえず気持ちが急いでいたから歩き出したものの、病院の受付でなんと説明すればいいのだろうか。
文字も言葉も伝わらないのだとすれば、ジェスチャーで説明するしかないわけだが、こんな込み入った内容を正確に伝えることができるとは思えない。
道を進む間にも、何人かの人とすれ違ったが話すことがなければ何も普段と変わった様子もなく、ただ普通に日常が流れている。
いつものコンビニ前を通り過ぎようとした頃。
後ろから肩をトントンと叩かれて振り向くと毎朝レジで顔を合わせていた、ロボットのようにマニュアル通りないつもの女性店員がこちらをじっと見つめていた。
ここ最近で、知り合いといえばコンビニの女性店員しかいない寂しい男。
混乱ばかりが続いていたため、知っている人間に会えたことだけで少し舞い上がってしまい、ここ数年で一番高いトーンで自ら話しかけた。
「あ、いつもの店員さんですよね!」
我ながらなぜこの状況で出てきた言葉がこれなのだろうと疑問が浮かぶほど、とても日常的でつまらないセリフ。
彼女は何も話さずにゆっくりと顔を縦に動かしただけ。
「え?」
今、もしかして言葉が通じたのだろうか。
「僕の言葉がわかるんですか?」
動揺しているせいで、まくし立てるように彼女に確認する。
もう一度彼女はゆっくりと頷く。
どういうことだ。
さっきまでは自分が何かおかしくなってしまっているのだと、そう決めつけていた。
しかし彼女には僕の言葉が理解できるということは、原因が僕に無いという可能性が出てくる。
「あ、あの、言葉が理解できなくなってしまって……」
あぁ、なんて意味不明な説明だろう。
突然コンビニの常連客にこんな言葉を投げかけられたら、気持ち悪くて距離を置くに決まっている。
せっかく理解できない今の現状に解決の糸口が見つかったというのに……
彼女はその場を離れるのでも、返答をするのでもなく、僕の目の前に2つ折りになったレシートを差し出してきた。
不意に手渡されたレシートを右手で受け取ると、何も話すことなく目の前から彼女は去っていった。
なぜ、レシートを手渡してきたのか。
混乱に重なる困惑で、理解しようとする脳が回転するのを忘れてしまい、彼女が去っていく姿を呆け顔で眺めた。
姿が見えなくなった頃、手渡された2つ折りのレシートを開いてみると裏に手書きで言葉が綴られていた。
「明日17:00に三坂橋の下で」
久しぶりの理解できる文字で書かれたその文章は、ここから10分先にある場所を示していた。
なぜ急に話しかけてきたのか理由は分からないが、今の状況から脱出するには彼女にあってみるしかないような気がしていた。
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