
自分が誰かとの待ち合わせのために必死になって走る日が再び訪れるなんて思いもしなかった。
走り出してすぐに胸の奥から伝わる鼓動に合わせて、空気が喉から肺へと吸い込まれていく。
乾ききった口を潤したい欲求を抑えて、ただ走る。
どれくらい走っただろうか。
おそらく実際に経過したのは5分にも満たないというのに、体感では4倍に感じる。
コンビニと家の往復でしか使っていなかった、太ももやふくらはぎの筋肉が悲鳴をあげるようにピクピクと痙攣を始めた。
普段ならきっと何をそんなに頑張っているのだと、俯瞰している自分からの言葉を素直に受け入れてその場に倒れこんでいただろう。
おかしな世界に紛れ込んでいるからなのか、自分の中の何かが変わり始めているのか。
息苦しさで回らない頭で考えても、答えは見つからないようだ。
胸の痛みで垂れ下がりかけていた顔を上げると、大きな川と三坂橋が姿を表した。
夕暮れに姿を変えた景色の中で、約束の時間に遅れた汗だくの男が懇願する表情で辺りを見渡す。
数十メートル先に小さなグラウンドに2つのベンチと1台だけの自販機。
彼女はそこで1人待っていた。
「あの、すみません」
足を伸ばして俯いて座っていた彼女が顔を上げてこちらに振り向く。
白いブラウスに梔子色のフレアスカートを着た彼女は、コンビニで見かける時よりもずっと女性らしく、凛と澄んだ早朝の湖畔に柔らかい光が差し込むような自然で柔らかな雰囲気を感じる。
「はい……」
彼女は細く消えそうな声でそう答えると、何も言わずに座っている位置をずらして隣を空けてくれた。
隣に座って、挨拶もなしに一番聞きたかった質問をぶつける。
「君はなぜ僕の言葉が分かるの?」
自分には彼女以外の言葉は分からないし、話している言葉も分からない。
こうして会話をしていても、実は伝わっていないのではないかと疑心暗鬼になってしまうほど、現状に疲弊していた。
彼女は答えずらいような表情をしながらも、さらりと真実を目の前に提示する。
「この世界はあなたが居た世界とは別の場所です……」
え、なに?
ん?
別の世界?
何かおかしい、自分ではなく世界が変わってしまったのではないかと考えていたが、突然に彼女から告げられた言葉をすんなりと受け入れる事はできなかった。
「え、あぁ」
情けなるぐらい、抜け殻みたいな返事をする。
「最近、急に倒れこんだ事はありませんか?」
確信に迫るように、彼女から僕へと初めての質問が投げられた。
倒れたこと……確かにある。
失神なんて空想の話の中でしか起こらない出来事だと思っていたが、まさに昨日コインランドリーで体験したばかりだ。
「それがきっかけでこちらの世界にきてしまったのだと思います」
「ちょっと待って、こちらの世界とはどういうこと?」
そこから先の説明は、まるで作り物のように今までの常識を覆してしまう話だった。
彼女の話を整理するように僕は要約して再確認する。
「つまり、こういうことでいいのかな?」
・この世界は僕が住んでいた世界とほぼ同じだが、言語やルールなど限定的な部分で違いがある。
・原因は分からないが、何かのきっかけで入り口にたどり着いてしまう人がいる。
・抜け出す方法は彼女には分からない。
「はい……そうです」
彼女は喋るのが慣れていないのか、疲労が伺える様子でそう答えた。
突拍子もない話だったが、僕が昨日から経験していた出来事を踏まえると彼女の話が嘘には思えなかった。
しかし、今の話が真実なのだとしたら一つだけ納得がいかない点がある。
彼女には悪いが、ここで解決しておかないことには自分がこの先どうするべきなのかも分からなくなってしまう。
「今の話が本当だったとして」
「それならなぜ、君はどちらの世界でも僕と会っているのかな?」
至極当然の疑問、元の世界へのルートへどうやってたどり着くのかが不明なのに彼女はどうやって移動しているのか。
「それは、分からないんです」
「眠ると移動してしまうようで……」
内容が理解できなかったので詳しく聞いてみると、どうやら彼女は元の世界で睡眠をとったときに毎回ではないが、気がつくとこちらの世界に移動してしまっているようだ。
この体験を数年に渡って繰り返しているため、僕と同じように迷い込んだ女性に出会ったのだという。
その女性も気絶した記憶を最後に、こちらの世界に移動してしまい戻れずにそのまま住んでいるらしい。
自分が元の世界に戻る時は、特定のタイミングではなく突然意識が戻るように帰っているそうだ。
「ありがとう、少しは理解したよ」
「ごめんなさい、私人見知りで……」
今までの様子で重々伝わっていたし、彼女のおかげで今の状況を知ることができたので感謝の気持ちでいっぱいだった。
「こちらこそ、無理させてごめんね」
「君のおかげで気持ちも少し落ち着いたよ」
そう伝えると、安心した様子で初めての笑顔を見せてくれた。
現状を少し理解できたとはいえ、このままでは元の世界に戻ることができない。
解決の糸口を辿るには、彼女が出会ったという女性を探してみる必要がありそうだ。
「そういえば、君の名前はなんて言うの?」
名前を聞かれることなんて日常に溢れているのに、彼女を少し不思議な顔で
「平井 美月(ひらい みずき)です……」
自分の名前ですら、自信がない様子で話す彼女に少し笑みが溢れる。
彼女はその様子を見てさらに不思議そうな顔を浮かべていた。