
家にあるものといえばカップラーメンが数個あるだけ。
人様に振る舞えるような料理を作れるわけもないので、こういった場合には出前が便利なのだが、電話での会話が必要なので無理だろう。
「ぐぅぅーー」
まるで見計らったかのように平井さんのお腹が空腹を告げた。
「あ……」
ひどく気恥ずかしそうにしている平井さんをフォローしてあげるべきなのだが、適切な言葉が思い浮かばない。
「今、ちょうど夕飯をどうしようか考えてたんだけど」
「普段料理をしないから、カップラーメンくらいしかないんだよね」
頭の中で整理していたことを単純に伝えただけ。
今掛ける言葉としては赤点間違いなしだろう。
「……」
「あ、ありがとうございます」
アパートの1室でカップラーメンに湯を入れ出来上がりを待つ数分は、張り込みをしている刑事を連想させてならない。
蓋を開けて幸福を噛み締めている間はズルズルという咀嚼音だけが部屋に響いた。
空腹が満たされたところで、この後をどうするかが問題だった。
確かクローゼットの中にいつ買ったのかも覚えていないトランプがあった気がするが、恐らく今までの流れを考えて、無言をさらに助長する結果になりそうなので却下。
しばらく考えてみてもアイデアが浮かばないので、一度外でも覗いてみようかと立ち上がろうと腕を床に伸ばすと、何かにぶつかった感覚と同時にTVの電源が点灯した。
画面に映し出されたのは、病院のような施設。
相変わらずテロップに書かれた文字を読み取ることはできない。
しばらくすると学者のような老人がカメラに向かって、何かを説明するような口調で話を始めた。
「と、ドリがいのニシンでいるか」
「がいのうする“たすけて”こいすりダイそと」
「ひきのせん、こいろいギダそいし」
???
気のせいだろうか、一言だけ聞き取れた言葉があったような気がする。
“たすけて”
彼が話している内容の中で、到底ポジティブには捉えられない言葉が混じっていた。
老人の話している様子や落ち着き払った口ぶりを考えても、彼が僕らの世界と同じ感覚で“たすけて”という言葉を口にしたとは思えない。
画面が切り替わり、ベットしかない殺風景な病室を定点カメラのような画角で写した動画が流れ始める。
ベットには男性が1人横になっているようだ。
その部屋に2名の白衣を着た男女が入室して、なにやら男性に声をかけているようだが、映像には音声が無いので何を話しているのかは分からない。
ベットの男性は上半身を起こし、彼らの方に視線を向けると懸命何かを訴えている様子。
白衣の2名はそれに答える様子もなく、タブレットを片手に様子を伺っている。
痺れを切らした男性がベットから勢いよく立ち上がろうとすると、カメラの死角から警備員が現れて男性を取り押さえた。
羽交い締めにされ、抵抗しながら叫んでいる男性。
そこで映像が途切れて、先ほど話をしていた老人学者に切り替わる。
「いそイから、そいでもうら」
「みらねおいシテい、“たすけて”このジンをしい」
先ほどの映像に映し出された男性が最後に叫んでいた言葉。
老人学者が再び口にした“たすけて”という言葉。
男性はもしかしたら、“たすけて”と叫んでいたのでは無いだろうか。
背筋が凍りつくように寒気が全身を襲う。
隣で同じようにTVを見ていた平井さんも、顔を青ざめている様子から同じ想像に至ったに違いない。
焦るように右手でリモコンを探り当て、TVの電源を落とした。
幸か不幸か、音声がない画像だったために確証はない。
しかし、状況から察するに僕らと同じ言葉を話す人間が施設に捉えられているとしか思えなかった。
「……」
「……」
先ほどのただ気まずい沈黙とは違い、お互いに考え込むように押し黙る。
この世界に来てから混乱することは幾たびもあったが、恐怖を感じた瞬間はなかった。
しかし、今回ばかりは恐ろしいという感情が心の奥底から湧き出て止まらない。
映像の彼は今一体どうしているのだろう?
叫んでいる彼の映像が頭に焼き付いて離れない、考えない方が良いとわかっていてもよくない想像ばかりが頭の中を埋め尽くしていく。
「もしかして……」
平井さんが口を開いたが、それ以上の言葉を告げることなく仕舞い込んだのが分かった。
この世界に迷い込んだ平井さん以外の女性に話を聞くという目的。
そのために僕らはこうして同じ部屋の中で待機していたが、もし先ほどの男性と同じように探している女性も捕まっているのだとしたら、ここにいる時間はただの徒労に終わるかもしれない。
「平井さん、今の映像が想像している通りなのだとしたら僕らも危ないかもしれない」
「ひとまず、今日はここで休んで明日からどうするのか考えたほうがいいと思うんだけど……」
僕にもこれからどうするべきなのかは分からない。
だが、こうなってしまった以上は元の世界への帰還が最優先なのは確かだ。
平井さんは僕の提案に言葉を返すことはなく、ゆっくりと頷いた。
電気を消し、外の街灯によって照らされる室内。
天井の影にさえ不気味な感覚を覚えてしまう夜。
眠るというには余りにも落ち着かない、ただじっと息を潜める一晩を2人は過ごすことになった。