
あなたは誰のために生きてきましたか?
誰かのためですか、仕事のためですか、将来のためですか。
そんなことを考える余裕もありませんよね。
わたしたちは一体何に、そして何故、こんなにも追い詰められなければいけないのでしょう。
生きる理由ってなんなんでしょうね。死ねないから生きてるだけなのかもしれません。
目次
苦しい、辛い、そんな思いを抱えて生きてきたのに、何故最後の最後まで苦しまなければいけないのか。
生きている限り、いつかは死にます。でもそのいつかが遠すぎる。そこまで息が続かない。
ふらっと消えてしまいたい。逃げる体力ももうない。次開ける扉が天国だったら。明日地球が滅びれば。今誰かに刺されてしまえば。
自殺した人の周りの声を聞くと、とてもそんな人には思えなかった。そんな感じがしなかった。そんな声をよく聞きますが、死んでしまう人は本当にふとしたタイミングで、きっと無意識に死へと向かってしまうのだと思います。ただなんとなく死んでみるかくらいの気持ちで死んでしまう。その先の道が本当にたまたまなかった。
自殺する人はなぜ最後まで苦しい思いをして死ななければならないのでしょうか。散々生きている間に苦しい思いをして、死ぬことを選択せざるを得なかったのに、なぜ最後くらい楽に死ぬことができないのでしょうか。最後の最後までなぜ苦しい思いを背負って死に追い詰められなければならないのでしょうか。なぜ死んだ後も責められなければいけないのでしょうか。
自分から死ぬということはそういうことだから。だから楽に死ぬことが許されるわけはない。それだけで片付けてしまって良いのでしょうか。とても残酷なような気がします。
私は自殺することが悪いことだとは思いません。
ただ良いこととも思えないし、ただそれを選ばざるを得なかったという状況を考えるととても哀しく思います。
本当の救いは「いつでも死ぬことができるという事実」にある。
「死のうと思えば何でもできる」っていう言葉が嫌いです。ひねくれ者だからというのもありますが、そういう根性論に心を殺されてきたんですよね。
そもそも何ももやりたくない、生きたくないから、死のうと思っているわけで、事実ではあるけれどそれは心が正常なときにしか活きてこない言葉だと思うのです。
本当の救いは死のうと思えばいつでも死ぬことができるという絶対的な事実。
まあいざとなったら死ねばいっかで思考がリセットされる、ある意味救われることってあります。本当にいざとなったら死ねばいい。死んで終わらせてしまえばいい。だからもうあと一歩だけ逃げてみませんか。
なんてそんな気にはなれませんか。そんな体力は残っていませんか。
今すぐにでも死んでしまいたいですか。ではまず本当に死ぬ前に死ぬ手段について考えてみませんか。できれば死んでほしくはないけれど、それでも死にたいというのであれば、苦しんで死んでいってほしくない。苦しみを最小限に抑えるにはどれがベストなのか。
結論から言うと首吊りらしいです。ドアノブで縄を引っ掛けて、体重を乗っけた状態で座れば簡単に死ぬことができます。首を絞められることにより、血が登らなくなり、失神。そのまま窒息。
ただし、発見した人の精神的ショックを考えて、首をつる扉の前には「絶対に開けずに110番してください。」と張り紙をしておいたほうが良いでしょう。そしてブルーシートを何重にも重ねてその上で行いましょう。そしてできれば換気用に窓を開けておいたほうがいいかもしれません。閉じた状態にしておいても後々臭いが外に出るのは時間の問題だと思われるので。
あくまで一般論を記載したに過ぎませんが。恐らく楽に死ぬことなんでいうのは無理なのでしょう。
鶴見 済さんの「完全自殺マニュアル」という本があります。
手元においておくだけでも救いになる場合もあります。有害図書に指定されており、書店で購入することが難しいので、インターネットでの購入が良いでしょう。生きる救いが死ぬことって皮肉でいいですよね。
生きるということは死ぬまでの暇つぶし。どうせいつか絶対に死ぬのだから。それに意味を求めていたって意味がないのかもしれない。どうでもいい。
でも少し、その終わりの日を1日2日ずらしませんか。
仕事を辞めればいい、学校に行くのをやめればいい、で解決はしない。
あなたには何もかもを話すことをできる相手はいますか。
きっといないのでしょう。何でも話すことができる人がいれば本気で死にたいだなんて思わないのだと思います。話すことで気持ちを誤魔化すことができますから。
ただすべてを話すには時間も体力も必要で、そしてそれを話したところで完全に理解してくれるとは限らない。そもそもそんな簡単に理解されたいとも思わない。
家族にも話すことができない。友達にも話すことができない。どこにも吐露することができない。「甘えだ」と一言で済まされてしまう、そんな屈辱は味わいたくない。私はそうでした。あなたもそうですか?
他人にはそんなしょうもない、と思われることでも、自分にとってはどれだけ大きなことなのか。仕事をやめたらいいっていうけれど、やめたところでどうなるのか。学校を行くのをやめればいいっていうけれど、やめたところでどうなるのか。結局行く先は真っ暗。そういう風にしか思えないのです。結局どう転んでも行き着く先は終わりだと。何も解決はしないのです。
まあぶっちゃけクソですね。本当にどうしようもないくらいクソです。
クソな人生になってしまったのか、そもそも生きるということがクソなのか。まあ、生きることがクソなんでしょうね。自殺する人間がこんなに多いんだから。クソの中に生まれて、クソに生きて、クソに死ぬ。クソまみれのなかで、命は尊い、悲しむ人がいる、なんて言われたって響くわけがない。こっちは耳の穴の中までクソまみれになっちまってますから。全身の穴という穴がクソで詰まってる状態なんです。それでよく生きたと褒めてもらいたいくらいですよ。マジで何も知らないのに勝手に人の命の価値を測ろうとするとか、てめえはなんだ?トイレの神様か?舐めんなよって話。
嫌なことばかりなのだから最後くらい笑えるような、ギャグ漫画みたいな死に方がいいですね。
東京五輪を見て感動しすぎて死ぬみたいな。観戦前にレッドブルめっちゃ飲みまくって。東京五輪初の死者としてニュースに出て。
もうどうしようもないですね、こればっかりは。そんな前向きに考えられる脳ミソしてないでしょう。脳ミソちぎって組み換えでもしない限り無理ですよ。
生きててどうしようもないと自分で思うならどうしようもないのです。
ただ私はこのクソまみれのどうしようもない生活に慣れてしまっているというか、クソまみれの中生きるためにこうして汚い言葉を吐いて、気道だけは確保してるっていうか。
笑われたり、馬鹿にされたり、情けなかったり、惨めだったり、誰にも関心を持ってもらえなかったり、貶されたり、騙されたり、生きてて良かったと思うときよりも断然死んだほうがマシだと感じることのほうが多い、そんな中でもこうしてなぜか生きている。「なぜか生きている」を繰り返している。そんな不思議にたまに気がついて少しだけ自分を嘲笑うようにして生きている。素直に生活できないのは素直に生きていると素直に死んでしまうからなのかもしれませんね。
死ねないから生きている。うんこの中で綺麗事吐いたって仕方がありません。マジタイガーウィスカって感じで、ここまで来たのならいっそのこと自分を完璧に死に殺すまで生きてやろうかななんてね。