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木根豊子が『海女小屋』から出てくることができないのは何故なのか。

木根豊子が『海女小屋』から出てくることができないのは何故なのか。

やはりどうにも焼きキャラメルチーズタルトだと思い込んでいたものだから、箸が進まず。
そんな不憫なプリンタルトを見ながら、私は少し考え事をしたのです。

プリンを人で例えるならば、キャラメルの部分が外見にあたり、カスタードの部分が内面的な部分にあたるのではないかと。
キャラメルの配分が多すぎれば苦いし、カスタードの配分が多すぎるとくどい。印象についても、やはりキャラメルが多すぎては品がなく、カスタードが多ければ華を感じない。
食べ方にも人が表れてくるかもしれない。一口目にカスタードの部分だけを食べるのか。それとも置くまでスプーンを突き刺し、キャラメルと両方すくって食べるのか。
ちなみに私はキャラメル部分はぎりぎりまで食べない。最後のお楽しみとしてとっておく。

さて、もし私がプリンだとすれば一体どのようなプリンとなるのだろうか。
きっと目も当てられない出で立ちなのだろうとおもう。
カスタードは空気の穴が目立ち、焦がしたキャラメルがほんの少しだけ添えられている。そんなプリン。ああ、情けない。なんと情けないのだろうか。

最近は何かを考える時間というものがあまりない。考える時間がないということは社会に溶け込んだ生活を送っているということだ。
仕事をしていると、一人の時間というものの方が少ないわけだが、ただこうも仕事ばかりに目を向けて人の中に混じっていると、自分というものを完全に見失ってしまう。日常の中に個としての私は存在してないのだ。資本主義社会の一部と化している。そうなると私は一体何のために生きているのかとうとうわからなくなってしまう。
もちろん、これは資本主義社会を否定しているわけではないし、私一人が抜け出して、のうのうと生きてやろうと策を考えているというわけでもない。どうしようもないことで、私には力があるわけでもないのだから、本当にどうしようもないことなのだ。

いつだって何か発起してやろうと企てるも、それを行動に移すことはなく、ただああだ、こうだとたった今のように自分に対してでもなく、誰に対してでもなく、漠然たる不満を、だだっ広い大空の隙間へと投げ込む。全く本当にどうしようもない。何一つはっきりとしていないのだから。存在すらすれど存在していない。
五分の魂もないのかもしれない。一体誰の世界に私は今存在しているのだろうか。本当の生きている価値なんてものは大多数の人間には無いなんてことはきっと誰しもが気がついているのだろうけれど、皆はその事実をどう克服しているのか。忘れてしまっているのだろうか。

なんてこういった非生産的で生きるに非効率な考えが私の意識を駆け巡っていくのは低気圧からくる脳への負荷がそうしているのかもしれない。
それとも一日の隙間時間に突如現れた自分自身が、そうした考えにも達しない意識を生み出しているのかもしれない。一人を愛したり一人を除け者にしたり、一体何がしたいのだろう。誰もが自分ので自分のことをよく理解できていないし、そんな状態なのだから誰もが誰もを理解することができない。それはきっとこれからもずっと続いてくのだろう。
皆、あらゆることに目を瞑って生活を営んでいる。幼き頃より教育され、認識の根底にこびりついた協調性という名の方向指示器に従順なのだ。それで社会は回っている。
無駄を削ぎ落としたい。しかしこの無駄を考えているこの瞬間こそ、本当の私が存在している一瞬であり、完全に削ぎ落とし切ってしまった時、その微々たる本当の私というものは息絶えてしまう。矛盾を吸って吐いて生きているらしい。

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